ニサ遺跡はトルクメニスタン首都アシハバードから西、トルクメンバシ方面へおよそ15~18kmの地点に存在したパルティア王国(中国名「安息国」)発祥の都市遺跡です。この遺丘は2007年にユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録されました。
パルティアは紀元前3世紀頃、セレウコス朝シリアの勢力を追い出し、イラン高原全域を支配した遊牧民族の国家です。後にローマ帝国と激しく争い、力を弱めた結果、イラン系のサーサーン朝ペルシャによって三世紀に滅ぼされました。
ほとんどが土で出来ている為、土に還ってしまっているものが多くあります。
王の建造物群のあった旧ニサと民衆の居住地区であった新ニサとから構成される2つの遺丘で、いずれも城壁に囲まれ、互いに1.5 kmほど離れています。
王宮のあった内城は旧ニサにはゾロアスター寺院やワイン貯蔵所跡などが残されています。また、「王の倉庫」と呼ばれる部分からは神像や土偶が発見され、中でもニサのヴィーナス像や象牙のリュトンは有名で、出土品は国立博物館に保存され展示されています。
遺跡周辺含め、まだ発掘されていない箇所があるため、今後も貴重な出土品が出てくるかもしれないといわれています。
クフナ・ウルゲンチは、ウズベキスタンの国境近く、ダショグズ州に位置します。12世紀には、ホラズム・シャー朝の首都として機能し、2005年に、ユネスコの世界遺産に登録されました。
かつて、クフナ・ウルゲンチはシルクロードにおける最大の都市でした。12世紀から13世紀初頭にかけてがクフナ・ウルゲンチの黄金時代。中央アジアで、クフナ・ウルゲンチをしのぐ人口を誇った都市はウズベキスタンのブハラを除いて他にはないほどでした。
1221年、チンギス・ハンが中央アジアへの進出を開始して、人類史に類を見ない大虐殺を展開。クフナ・ウルゲンチは、チンギスによる虐殺の後に復興をとげましたが、1370年代には、アムダリヤ川の流れが北に変わったことにより再び街が衰退していき、同年内にクフナ・ウルゲンチは完全に放棄されることとなります。
現在のクフナ・ウルゲンチは、多くが全壊あるいは半壊に近い状況となってしまっており、今見られるのは12世紀に建設された3つの小さな廟建築と14世紀に建設されたトレベクハヌム廟です。
トレベクハヌム廟の内側の直径12mのドームの装飾は中央アジアでは歴史上初めてペルシャ伝来のモザイクタイルの技術を用いています。 星を模した365の金色の点、それを支える円筒部分の12のアーチ、その下の24のアーチと4つの大きな窓がそれぞれ、「年・月・日・週」を表すなど、当時の天文学的な知識が反映されています。
また、クフナ・ウルゲンチで最も高い建築物は、60メートルもある11世紀に建設されたクトゥルック・ティムールのミナレット。煉瓦で建設され、アフガニスタンにあるジャームのミナレットと並んで、高さでは世界一を争うほどです。
カラクム砂漠の中にある、紀元前6世紀から18世紀に掛けてシルクロードのオアシス都市として栄えたのが中央アジア最大の遺跡がメルヴ遺跡です。
マーリ州に位置し、1999年にトルクメニスタン初の世界遺産に登録されました。
もとはホラーサーン地方の中心都市のひとつで、人口は100万人に達したといわれています。
メルヴは紀元前6世紀から、アケメネス朝ペルシャの支配下にあるオアシス都市として繁栄し始めました。
メルヴには、紀元後1世紀頃に仏教が入ってきたと考えられ、城壁の南東すみに、仏寺跡とみられる遺跡も存在し、当時の仏塔や僧院が残されており、8.5cmの仏像の座像と土器に入った経文も発見されています。
紀元前2世紀~後3世紀のパルティア時代を経て、メルブが最大の栄華を誇ったとされるセルジューク朝時代。「スルタン・カラ」のほぼ中央に建てられたスルタン・サンジャル廟は、外壁5m、基礎6mという堅牢なもので、後のモンゴル軍の破壊や地震にも奇跡的に耐え抜き、当時の建築技術の高さを感じさせます。
様々な時代を経て大都市となったメルヴでしたが、ホラズム・シャー朝の時代に1218年にチンギス・ハーンの要求を伝えた特使を殺害したため、1221年、チンギス・ハーンの末子トルイ率いるモンゴル騎馬団が復讐・征服し、100万人を数えたという住民は一人残らず皆殺しにされてしまいました。それ以降、二度と復興することはありませんでした。
メルヴ遺跡のシンボルともいえる「キズ・カラ」は高さ20m近くあり、かつては2階建てで屋根もあったと考えられていますが、現在1階部分は砂に埋もれ、壁は一部崩壊し、修復作業が行われています。